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2015年9月28日月曜日

【秋田の旅】 1日目 花山峠を越えて横手まで

シルバーウィークに遅れること1週間、今日から5日間の休みになったので、どっかにいくことにした。目的地はまた例によって「どっか」という適当さなのだが、とりあえずまとまった日数が確保できたので遠くへ行こうと思い、目的地を秋田に設定した。実は私、秋田には行ったことがない。

5日間の休みだが、どうも最終日に当たる金曜日の天気予報が雨(台風?)なので、実際にはもっと早く帰ってくることになるかもしれない。



とりあえず前日あたりから、Google Mapに行きたい場所をマーキングしながら、なんとなくルートが見えてきた。仙台を発し、栗駒山わきの国道398号から横手方面に秋田入り。角館 → 秋田 とまわって、あとは日本海沿いに南下。そのまま山形に入って鶴岡から六十里街道 → 関山街道で仙台に戻る。なんとなく、仙台・秋田・庄内を反時計回りに一周するルートになる。

時間があれば角館から大舘、能代を回って秋田まで大回りすることも考えているの。が、途中で立ち寄る場所でどれだけ時間がかかるかわからないし、移動手段も50キロちょいしかでない原付なので、カーナビの到着予定時刻があてにならない。いつもなんとなくのルートは想定していくのだが、ほぼその通りにはならない。もっとも、旅はその方が面白い。

■ 川口城

一日目は、とりあえず秋田県の横手を目指すことにした。

仙台からは国道4号 → 457号 → 398号のルートでひたすら北上。秋田に入る前に立ち寄ろうと思ったのが、栗原市の川口城址。戦国時代には大崎氏傘下の狩野修理の居館。このあたりは、ちょうど大崎氏と葛西氏の境界線に位置する。江戸時代には仙台伊達藩の領土となり、「所」として存続した。ここの領主となったのが遠藤氏で、「中野宗時の乱」で登場した遠藤基信の子孫である。


なかなかの山で、山頂までの階段の先が見えず、登る気力を奪う。後で調べたところ、山頂は約125メートルに対してふもとは標高70メートルの、比高約50メートルといったところ。山城としては高いに越したことはないが、江戸時代の当地の拠点としてはいささか不便である。おそらく、江戸時代には政庁としての居館が麓に設けられたことだろう。


階段を登りきると、八雲神社があるが、本丸にしては狭い気がする。今回、この川口城に関しては遠藤基信の関連でどんな場所だか気になって、ちょうど秋田へのルート上にあったので立ち寄ってみた程度。伊達四十八舘についてはいずれ全て制覇しなければ、と思っているので、そのうち本格的に調査に訪れることになると思う。

■ 寒湯番所跡

398号沿いに北上すると見えてくるのが、仙台藩寒湯番所跡。仙台藩に27か所あった番所(=関所)のひとつで、領土を接する秋田佐竹藩との境目である。ちなみに「寒い湯」と書いて「ぬるゆ」と読む。なぜ!?

写真にある四脚門は現存のものとのこと。明治2年に発布された関所廃止令により、全国の関所はことごとく廃されたため、このように遺構が残っているの関所というのは、全国的にも大変珍しいそうで、国の史跡に指定されている。

役宅。こちらは安政4年(1857年)建造。

現在の宮城県と秋田県の県境は、近世の仙台伊達藩の秋田佐竹藩の境界と一致する。そのため、これから峠を越えて秋田入りするぞ、という期待を前にしてこういう関所跡を見学できるのは、気分がオーバーラップしてとてもテンションがあがる。ここからいよいよ、花山峠を越えて秋田県に入る。

■ 花山峠

現在の国道398号は、歴史的には「湯浜街道」という。現在のルートも、たどっていくと三陸の志津川港へいきつく。というわけで、三陸の海産物を秋田側に輸送するためのルートだったそうで、湯浜街道の「浜」は三陸海岸を指しているのだろう。「湯」はこの先にある湯沢のことだろうか。


さきほどの関所跡のあたりから宮城県側のルートは1車線程の道幅になり、急なつづら折りが続く。これぞ峠。こういう道は、車よりも二輪の方が走っていて断然楽しい。



途上には、栗駒山が眺められるスポットがちらほら。山頂はすでに赤く染まっていて、紅葉が始まっている模様。

そして、人生初の秋田県入り。途中、他にも景色のいい場所はあったのだが、走るのが楽しくて立ち止まって写真を撮るのがめんどくさかった。ツーリングあるある。

ところで、同じ国道398号線なのだが、秋田県に入った途端にきれいな2車線道路に変貌する。似たような現象は宮城・山形間の関山峠、笹谷峠でも見られる。関山峠(国道48号)はどちらも2車線道路なのだが、山形側はところどころに登坂車線や待避所が設けられているのに対し、宮城県側にはなにもなくだいたいどの年も峠のどこかで雪崩がおこって通行止めになるのだが、たいていは宮城県側である。笹谷峠(国道286号)も、宮城県側はつづら折りが激しいのに対して、山形側は比較的なだらかなカーブが続く。

どうも宮城県は、峠ルートの整備に対してケチらしい。もっとも、現在宮城県側の関山街道のあちこちで工事を行っているので、なんらかの対策はしている模様。

■ 小安狭

秋田県に入ると小安峡なる景勝地・温泉があるらしく、一応マークはしておいたものの、花山峠のいたるところで絶景がおがめたので、素通りでいいかな、と思っていた。ただ、国道のわきに渓谷にかかる橋が見当たったのでちょこっと立ち寄ってみたところ、小安峡をナメていたことを痛感した。




た、高い!

写真だと伝わりにくいのだが、拡大すると川の脇に遊歩道があり、そこを歩いている人の姿が映っているのがわかるだろうか? その大きさを比較すると、渓谷の深さがお分かりいただけると思う。橋には二人のおじーちゃんがいたのだが「いやぁ、高いですねぇ」とあいさつすると「ケツの感覚がおかしくなっちめーわ! はは!」と返答された。高所で尻がゾクっとなるあの感覚である。自分も然り。ここでバンジージャンプをやったら、さぞ楽しいことだろう。


なお、小安峡の少し手前の国道沿いには、小安御番所跡がある。こちらは、同じ湯浜街道の秋田佐竹藩側のもの。

■ 伝統的建築物群保存地区 増田

ここからはほぼまっすぐに横手を目指すのだが、一か所だけ立ち寄ったのが、増田。江戸時代に物流の拠点として栄えた場所で、要は商人の町である。昔ながらの建物が残り、「伝統的建築物群保存地区」に指定されている。蔵の街並み、ということで、雰囲気は同じく商人の町だった宮城県の村田と似ている。

戦国時代には増田城なるものが存在したが、一国一城令により廃城。蔵の街並みからすぐの場所だったので行ってみたのだが、現在は小学校になっており、遺構らしきものはほとんど見当たらなかった。小学校の敷地沿いをなんとなく土塀らしきものが囲っているのだが、ただ小学校の境界として整地したもののようにも思える。うーん。


保存地区では蔵の内部見学なんかもできるらしく、本当はゆっくりと見学したかったのだが、村田で見たものと似ていて既視感があったことと、15時から雨の予報が出ていたので、町並みを歩いただけで満足して目的地の横手へ向かうことに。

■ 横手やきそば

今日は朝から快晴で、峠越えも最高だったのだが、増田に着いたあたりから曇り始め、横手まであと10分ほどのところでポツポツと降り出し、予約していた宿まであと少しというところで猛烈に降ってきた。びしょ濡れになりながら、宿にチェックイン。

宿についてからしばらく休んでいると、雨も止んだので夕飯を食べにいくことにした。なんとなくこってりしたラーメンが食べたいなぁと思っていたのでラーメン屋を検索すると、なぜか画像にやきそばが。なんでもこの横手は「横手焼きそば」なるものがご当地グルメとして有名らしい。自分、こういったB級グルメに目がない。高尚なグルメを出されるよりも、B級グルメを大盛りでがっつり食べたい派。

せっかくなので食べてみたところ、ソースの具合とか、自分の好みにぴったり! 横手焼きそばの特徴としては、

・目玉焼きがのっていること
・若干水分が多め
・しょうがの代わりに福神漬けを添える

といったところらしい。今回立ち寄ったのは「らーめんへのかっぱ」というお店で、本来はラーメン屋らしい。平日の5時台なのにも関わらず、結構人が入っていた。横手では「横手焼きそば四天王決定戦」なるイベントが毎年行われているそうで、この店もなんどか四天王に選ばれたらしく、店に賞状が飾ってあった。横手駅からも歩いて1分。おすすめ。

明日は、横手城を見学してから、何か所かたちよって角館、秋田を目指す予定。どこまでいけるかは、明日になってみないとわからない。

続く

2015年9月25日金曜日

中野宗時の乱 02 -謀反の発覚からその顛末まで-

【承前】前編 -伊達輝宗、中野宗時、そして遠藤基信-

前編では伊達輝宗と中野宗時の対立ボルテージが最高潮まで高まったところまで解説した。

■ 新田義直の捕縛 -謀反の発覚-

元亀元年(1570年)4月4日、輝宗の下に新田景綱がその息子・義直を捕えて献上した。新田景綱によれば、中野宗時、牧野久仲がクーデタをたくらんでおり、義直もこれに荷担していたため、それを防ぎ、息子の義直を捕えてきたという。

新田義直は、中野宗時の嫡子・親時の娘婿にあたる。つまり、中野宗時からみれば義理の孫となる。この縁で中野宗時から謀反計画に加わるように誘われた。義直は「父・景綱と相談したい」と答えたが宗時はこれを責めたて、義直は仕方なく計画に加わった。

このあたり、関係がややこしいのだが中野宗時にまつわる縁者を系図にしてみたので、下の図で確認してほしい。



この件について義直が父に相談すると、景綱はこれを静止し、壮絶な親子ゲンカが始まる。どれくらい壮絶な親子ゲンカだったかといえば、これは実際に『治家記録』から引用してみよう。
遠州(※新田景綱)驚き、汝縁類の好よしみを以って累代の主君に対し暴逆無道の与動を作さんや、必ず思い止まれと警いましむ。四朗(※新田義直)、武士の一度約して違変すること有んと言う。遠州、一たびは怒り、一たびは歎きて言を蓋して静し止む。四朗終ついに従わず。遠州大に怒りて、(※伊達輝宗)に背くのみか父を棄すてる大賊、手打にせんとて刀を抜く。四朗即ち逃去る『性山公治家記録 巻之二』(表記は現代風に改)
口論の末、刀に手をかけるまでの親子ゲンカである。「一度約束した以上武士として背くわけにはいかない」という義直の理論と、「親族の縁よりも歴代の主君に仕える方が大事」という景綱の理論。どちらも正論といえば正論なので、決着はつかない。となれば、もはや戦いで決するしかない。

この後、新田景綱は息子・義直の居城である館山城を襲い、義直を捕え事件について輝宗に報告した。こうして、中野宗時のクーデタ計画が明るみになったのである。

■ 小松城の戦い

同日(1570年4月4日)の夜には、中野宗時にも新田義直が捕えられ、謀反の計画が明るみになったとの報がもたらされた。宗時は、自宅と配下の家に放火したうえで、実子である牧野久仲の居城である小松城へと逃げ込んだ。

このあわただしいリアクションを見る限り、新田義直から計画がもれるのは完全に想定外だったのだろう。なお、米沢城下町はこのときの放火により壊滅した。『治家記録』は「御城下一宇も残らず焼亡」したと伝えている。

中野ら一党が逃げ込んだ小松城は、米沢城から直線距離でもわずか15キロの距離にある。翌4月5日、輝宗はこれを攻めるためにさっそく自ら出陣した。

小松城跡。自分は実際にここを訪れたことがないので、今回Google ストリートビューで実際の地点を確かめて
みた。城跡を囲む道を進みながら画像をみていると、見事に土塀で囲まれたまま遺構が残っていることがわか
る。便利な時代になったなぁ。               (場所:山形県 東置賜郡 川西町 中小松

まず、新田景綱・小梁川宗秀らの軍団が押し寄せた。小梁川宗秀は敵武者を打ち取る手柄をあげたが、このとき負傷し戦死。一方、新田景綱の軍団の力戦っぷりはすさまじかった。おそらく、謀反に荷担した息子の尻拭いをしなければいけないという新田家としての体面、息子をそそのかした中野宗時への恨みをこの戦いにぶつけたのだろう。

籠城する中野一党は
宗時・久仲ふと籠城す。よって久しく保ち難し。大勢の攻め寄せざる前に相馬に奔らんと思い、一方を打破り、刈田関・湯原に中野が采地の有けるを便にして、遂にこの山中にかかりて逃行きけり。
 『性山公治家記録 巻之二』(表記は現代風に改)
大した計画もないままに追い込まれるようにして小松城へ籠城せざるをえなくなったが、ここは伊達の本拠地・米沢城からも近い。援軍が大勢おしよせる前に、相馬へ亡命しようと考え、城の囲みの一方をなんとか突破して逃亡した。

■ 亘理親子の迎撃

米沢からみて相馬はほぼ真西に位置する。そこまでたどりつくには、奥州山脈を越えて福島盆地まで行き、そこからさらに山越えをして太平洋側まで行かねばならない(後述の様に、どうもこの最短ルートではなく、かなりの回り道をした可能性があるのだが)。

都合のいいことに、その経路上にある刈田郡の関・湯原は中野の領地があり、小松城を脱出した反乱軍はまずそこを目指した。

一方、彼らの逃亡を許した輝宗としても
中野・牧野を追いけれども、山路険難といい、彼が領地といい、敢えて容易く進み難し。公(※輝宗)も伊達・信夫の一族大身、中野に心を合する者も有べきかと遠慮ありて、速やかに御帰陣あり。
 『性山公治家記録 巻之二』(表記は現代風に改)
彼らを追撃するために通過する伊達・信夫郡の領主たちの中に、中野宗時ら反乱軍に味方するものがいるのでは? との疑いを捨てきれず、これ以上の追撃を断念した。

反乱軍は関・湯原を通って、刈田郡の宮(現・蔵王町 宮)の河原まで到達した。この時点で中野一党に従うものは500騎程であったというが、相馬まではまだ距離がある。



この宮の河原で反乱軍を待ち受けたのが、亘理元宗・重宗の軍勢であった。亘理親子は小松城の籠城事件の報告を受けて、亘理城から出撃してきており、反乱軍を迎撃。やっとの思いで逃亡してきた反乱軍にあらがう力は残っておらず大いに敗れ、中野宗時・牧野久仲らはやっとの思いで相馬へと逃げ込んだ。

■ 全ては遠藤基信の計画だった!?

結果的に中野宗時の逃亡は許してしまったものの、彼らの謀反計画は事前に露見し、失敗に終わった。後に判明するのだが、実はこれはすべて遠藤基信の計略によるものだったという。遠藤基信が中野を裏から操って謀反を起こさせた、というわけではない。中野が謀反に及ぶことがあったら、それを事前に察知できるように仕組んでいた、というのである。
新田忠功の事、畢竟(※ひっきょう、つまるところ)遠藤基信が計策より出たり。中野連々驕肆(※きょうし、驕りたかぶること)甚しくして、遂には謀反すべき事を予め慮り、新田四朗(義直)を中野が縁者に成し置かば謀反の時遠州(新田景綱)まず知るべし、遠州は権勢も有りて忠貞の志深ければ、却かえって中野を亡すべき人なりと思い、大膳(中野宗時)が壻に取り計らいしなり。基信が知慮の深き事、この時に至りて皆嘆美せり。                      『性山公治家記録 巻之二』(表記は現代風に改)
新田義直が中野宗時の縁者となったのは、権勢もあり、主君への忠節の厚い父・新田景綱を見込んでの縁談であったという。これを仕込んだのが、遠藤基信だったというのだ。新田親子にしてみれば巻き込まれた感は否めない気がするが、何にせよ、遠藤基信の仕込んだ安全弁が役に立ったのだ。

もともと輝宗の信頼厚かった基信の名声はこの事件で飛躍的に高まり、以後、伊達家における遠藤基信の執権体制が確立する。彼は君主・伊達輝宗と二人三脚で伊達家の舵取りをしてゆくことになる。

■ 事件の後始末

『治家記録』を読む限り、この中野の乱の後処理にはかなりの時間がかかったものと思われるフシがある。というのも、この件に関する論功行賞が、かなり時間をおいてポツポツと散見されるからだ。

事件の後始末に関する事項を書き出してみよう。

  • 1570年4月23日 小関土佐、今後の奉公を誓う。輝宗は彼の処置を父・晴宗に任せる
    (小関は事件の際に上方にいた。詳細は不明だが、『治家記録』著者は中野の親族と推測している。)
  • 1570年5月    亘理元宗・重宗親子に加増
  • 1570年9月上旬 小梁川盛宗(泥播斎)、白石宗利、宮内宗忠、田手宗光を赦免。
  • 1571年12月17日 鹿股壱岐に加増

注目すべきは9月上旬の小梁川盛宗らの赦免である。「赦免」とは彼らの領地を中野宗時が通過したのを見逃した罪に対する赦免である。

疑問なのは、事件からここまでに約半年が経っていることだ。彼らの赦免に関しては伊達晴宗や伊達実元の奔走も記されており、それによって時間が延びたとも考えられる。しかし、半年である。

おそらく、事件の全容を解明するための捜査に時間がかかったのではないだろうか。

中野の謀反計画は突発的に露呈したため、反乱軍は追い詰められたように逃亡した。おそらく反乱に荷担する予定だった者も他に多数いただろうが、こういう状態では日和見を決め込んだかもしれない。事実、輝宗も小松城から逃亡した中野の追撃を、彼に味方する者が伊達・信夫の地にいることを恐れて諦めている。

今回たまたま「中野一族」の反乱という形をとったが、伊達家臣団の中に、潜在的な中野のシンパはかなりいたことだろう。下手に粛清を進めてやぶで蛇をつつくようなことにならないように、事件の後始末には慎重を期す必要があったに違いない。なお、伊達輝宗は中野の逃亡を許した者たちに対して厳罰を主張したが、これも遠藤基信が諌めて止めたという。

では、中野宗時の謀反計画の全貌とはどういったものだったのか?

2015年9月24日木曜日

蘆名盛信

はりゅう もりのぶ
針生 盛信 
別名
丑松丸、小太郎、民部太夫
生誕
天文22年(1553年)
死没
寛永2年(1625年)8月9日、享年73歳
君主
蘆名義広 → 佐竹氏 → 伊達政宗
仙台藩
家格
準一家(仙台藩)
所領
常陸国 金井 18000石
陸奥国 胆沢郡 衣川
氏族
針生氏
針生盛秋
針生盛直
子孫
蘆名盛景(幕末期、額兵隊総督)
先祖
蘆名盛滋(針生氏の祖)
会津を拠点とする蘆名氏の一族、針生氏の当主。

天正期には蘆名方の武将として伊達軍と対峙する。天正17年(1589年)の摺上原の戦いでは伊達政宗と決戦に及ぶが、蘆名氏はこれに敗北、お家滅亡となる。

この後の盛信の行方について『三百藩家臣人名事典1』では「のち日立の金井に1万8000石を領したが、関ヶ原の戦いで石田郡に与したことで采地を失い」とある。

明言はされていないが、当時の蘆名家の当主・義広が佐竹氏の出身であったことから、これに従って佐竹氏の客将となって常陸で所領を得たのだと思われる。佐竹氏は関ヶ原で石田三成に味方したため、秋田に移封となる。この際に浪人となったのだろう。

慶長7年(1602年)、伊達政宗の招きに仕えてその家臣となる。大阪冬の陣、夏の陣ともに功があり、胆沢郡衣川に領地を与えられ、準一族に列せられた。

寛永2年(1625年)、8月9日没。

蘆名氏の本家は佐竹氏に従って秋田藩へと移ったが、この系統は後に断絶する。これによって蘆名の門跡が途絶えることを憂いた伊達綱村の命により、延宝4年(1676年)針生氏が蘆名に改姓した。

子孫の蘆名盛寿は加美郡中新田において3000石を領したが、故あって1500石に減らされたうえで登米郡小谷地へと移封となった。

■ 参考文献
・家臣人名事典編纂委員会編 『三百藩家臣人名事典1』新人物往来社、1987年



2015年9月7日月曜日

中野宗時の乱 01 -伊達輝宗、中野宗時、そして遠藤基信-

中野宗時。
グラフィックは「信長の野望・創造」より

永禄9年(1566年)1月10日付けの
蘆名盛氏からの書状では、他の宿老
数名と共に宛名として記されてお
り、内外ともに伊達家の有者とし
て認知されていたことが伺える。
政宗の父・伊達輝宗の政権下において最大の事件であった中野宗時のクーデタ未遂事件について触れたい。事件名については「元亀の乱」「中野宗時の乱」「中野父子の謀反」として紹介されることが多い。

詳しくは後で説明するが、この事件は、伊達家臣における最大の権力を誇った中野宗時が失脚した事件というだけでなく、後の政宗時代に伊達家が大きく飛躍したきっかけともなるできごとという意味で、とても重要である。

この事件の前提として、当主・伊達輝宗、その側近・遠藤基信、伊達家最大の実力者・遠藤基信の(BL的ではない)三角関係についての理解が必要なのだが、01ではその解説がメインとなった。

文章読むのがめんどくさい人は、記事の一番下にわかりやすい図解をのっけておいたので、そちらだけでもどうぞ。

■ 権臣・中野宗時

中野宗時は伊達稙宗(政宗のひいじいさま)に仕えていたが、稙宗の政策に不満を持ち、その嫡子である伊達晴宗を焚きつけて伊達家のみならず南奥州全土をまきこんだ内乱を勃発させた。天文の乱である。

内乱には晴宗党が勝利したことから、その側近であった中野宗時は晴宗政権下において絶大な権力を誇った。また、次男の久仲を同じく伊達の宿老家として高いポジションにあった牧野景仲の養子として送り込んだ。要は牧野家をのっとったのである。以後、中野宗時・牧野久仲の親子二人で伊達家中の権力をにぎった。

晴宗は永禄7年(1564年)に家督を輝宗に譲るが、輝宗政権下においてもその影響力は無視できないものがあった。また、晴宗と輝宗親子の間には不和があったといわれているが、それも宗時が画策したものであるらしい。
「代々の威権といい、若干の地を領し、剰あまつさえ当時親子の間なれば、何事も中野・牧野が裁配に因れり。宗時は佞奸邪智にして、天文の内乱も彼らが所為より出たり。公御父子(※晴宗と輝宗)の間も様々な表裏を申す」
『性山公治家記録 巻之二』(表記は現代風に改)
中野宗時の実子・牧野久仲
グラフィックは「信長の野望・創造」より

伊達晴宗が奥州探題に任命されたとき、
陸奥国守護代に任じられる。当時「守護
代」役職にどれだけの権限があったの
不明だが、自らこれに就任せず、
久仲を守護代に就けるあたり、権力
者・中野宗時の権力者としての政治テク
ニッが垣間見える。
上記のごとく、伊達家の公式記録である『伊達治家記録』は中野宗時について伊達家の当主をないがしろにする「悪い家臣」として描いている。「佞奸邪智 ねいかんじゃち」という四字熟語を使ってくるあたり、すさまじい強調っぷりである。

「表裏を申す」は、それぞれに別々の情報を吹き込んで晴宗・輝宗親子の関係を悪くした、という意味であろう。また、『治家記録』の筆者は伊達稙宗・晴宗親子の争いである天文の乱についても、そのきっかけは中野宗時が晴宗をそそのかしたことに始まる、と示唆している。

もちろん、『治家記録』は伊達家の公式記録であるため、その当主である伊達晴宗・輝宗親子に敵対する中野宗時は悪者でなければならない。当然、中野宗時の悪さについては"盛っている"部分もあるだろう。しかし、良いか悪いかはともかくとして、その権力の絶大さにかけては『治家記録』の著者も認めていることがうかがえる。

■ 遠藤基信の登場

輝宗としては、伊達家当主としてできるだけ中野宗時の影響力を排除したいところであった。その助けとなったのが、遠藤基信である。
宗時上を軽んじ、事あるに出仕せず。文七郎(※遠藤基信)を使として申し沙汰す。
                     『性山公治家記録 巻之二』(表記は現代風に改)
中野宗時は当時、輝宗を軽んじて出仕することもなかったという。伊達家中における最大の実力者はあくまで自分であり、いかに当主であろうがいちいち輝宗の意見や承認を伺う必要はない、との態度がみてとれよう。

とはいえ、完全に無視してないがしろにするのもはばかられる。自分が出仕しない代わりに、輝宗のもとに差し出したのが遠藤基信であった。
遠藤内匠基信、其のころ文七郎と称して宗時が門士なり。連歌を嗜むを以って御会の席に召し出さる。才覚御意に適う。(略)
文七郎素もとより才智勝れたる者なれば、日を追って出頭す。
                 『性山公治家記録 巻之二』(表記は現代風に改)
遠藤基信
グラフィックは「信長の野望・創造」より

修験者・金伝防の子。若いころに
諸国を旅してその見聞を広めた。
のちに事件の全てが基信の計略
あったことがわかるが、それにつ
いては後編で。中野宗時に仕えた
のも、彼の壮大な計画のはじまり
すぎなかったのかもしれない。
彼はもともと、中野宗時の家臣である。『治家記録』には「門士」(門番)として仕えたとしている。連歌の才能があったことで輝宗に気に入られたのが彼の活躍のはじまりだった。以後、遠藤基信は中野宗時の代理人として、輝宗に仕えるようになる。

宗時としては、遠藤基信に対して連絡係 兼 出向秘書のようなポジションを期待していたのだろう。輝宗が自分に対してあまり反抗的な態度をとらない様に、監視役としての任務も与えていたのだと思われる。しかし、これが中野宗時の誤算であった。

もともとは歌の才能をきっかけに輝宗に気に入られた遠藤基信だったが、風流だけでなく、まつりごとついても輝宗の良き相談役になったらしい。詳細は遠藤基信の項目を参照してほしいのだが、この人、若いころに諸国を旅して見聞を広めたなかなかの器量人で、何事においても輝宗にとって欠かせない人材となった。

基信は、輝宗の信頼を勝ち取り、側近としてのポジションを確かなものにする。

■ 遠藤基信 暗殺未遂事件

伊達家当主・伊達輝宗。
グラフィックは「信長の野望・創造」より

言わずと知れた伊達政宗の父親。中野
宗時の謀反が起きた当時、27歳の青年
当主であった。老臣の専横について、は
がゆい思いがあったに違いない。

有能な側近である基信を手に入れた輝宗にとって、中野宗時の必要性は低下した。輝宗にとっての中野宗時は、伊達家を運営する上で欠かせない実力者ではあるが、あくまで「目の上のたんこぶ」である。これに頼らなくて済むならば、それに越したことはない。

また、反比例するように、遠藤基信に対する必要性と信頼は上昇していった。

一方、宗時にしてみれば、スパイとして敵方に送り込んだ部下・遠藤基信が自分を裏切って敵に寝返ったように見えただろう。自分の部下が有能なせいで、自分の地位が脅かされる。権力者にとってこれほどの屈辱はない。こういう状況で生まれてくる男の感状とは、「嫉妬」である。「嫉妬」という文字は女偏で書くが、男の嫉妬は女のそれよりも激しい。

中野宗時は遠藤基信の暗殺をはかった。
後には宗時悔い妬みて、親しき者を遣わし、偽って盗賊のまねし、衢ちまたに伏さしめ、深更(※深夜)に及んで連歌の席より帰る道を要して(※遠藤基信を)殺さんとす。衣装を裁って身に中あたらず。
                       『性山公治家記録 巻之二』(表記は現代風に改)
宗時は「親しき者」に盗賊のふりをさせて、連歌の会から帰宅する遠藤基信を襲わせた。おそらく刃物で襲撃させたのだろう。しかし、その刃は服を切り刻んだだけで、基信を殺害することには失敗した。
(※遠藤基信は)直に御前(※輝宗のもと)に参ってこの由を告す。宗時が所為なりと思召す。宗時驕奢日々に盛にして公も悪みたまう事漸ようやく深し。
                       『性山公治家記録 巻之二』(表記は現代風に改)
遠藤基信がこの事件について輝宗に報告すると、輝宗も事件の主犯は中野宗時であろうと推測した。

ひとつ前の引用文では、『治家記録』の筆者は暗殺事件の背後にいるのは中野宗時であると断定した書き方をしているが、この当時は決定的な証拠はつかめず、状況証拠からみて宗時が基信の暗殺をはかった、と推測するのが精いっぱいだったのだろう。

事実、この事件についての後始末については何も記述がないことに注目したい。伊達家当主の最も信頼する部下の暗殺を謀っておきながら、その首謀者を処罰できないという当時の権力バランス。輝宗サイドとしても、中野宗時の勢力を排除するだけの決定打に欠けていたことがうかがえる。

一方の宗時は
是に於て宗時 禍の身に及ばん事を恐れて、親族郎党を集めて密かに公室を奪わん事を謀る。久仲を始めとしてくみする者甚だ多し。
                       『性山公治家記録 巻之二』(表記は現代風に改)
基信暗殺に関与した証拠は残さなかったにせよ、これで輝宗との対立は決定的になってしまったことを自覚した様だ。家中における最大の実力者とは自分であるとはいえ、あくまでも輝宗が当主である。その輝宗に自分たちの陣営を責める口実を与えてしまったことは否めない。

「やられる前にやれ」が戦国時代のルールである。

宗時は牧野久仲ら「親族郎党を集めて」「公室を奪わん事」、つまり伊達家のっとりのクーデタを画策した。これに荷担した者が「甚だ多」かったのは伊達家の公式記録も認めるところである。


こうして、伊達輝宗 vs 中野宗時の権力闘争はそのボルテージを最高レベルまで高めた。あとは、どちらが先にしっぽを出すか、である。

【図解】ここまでの状況の簡単なまとめ

【その①】

【その②】

作ってみて、なかなかわかりやすい図解だと自負している次第である。うん。

続く! → 02 -謀反の発覚からその顛末まで-