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2015年4月29日水曜日

中羽前/北羽前街道の旅 [後編]

【承前】中羽前/北羽前街道の旅 [前編]
2日目はチェックアウトの時間近くまでゆっくーり休んでからゆっくーり出発。

■ 鮭延城/真室城跡

ひとつめの目的地は、宿泊した新庄と同じ最上地方の真室川。新庄から県道308号を北西に進む。この地域は戦国時代にまさに激戦地となったところで、庄内地方の大宝寺氏、秋田南部の小野寺氏、山形の最上氏、三者の争奪のマトとなった。

はじめ、この地を支配する鮭延氏は小野寺傘下だったのが、1581年に最上義光に攻められて降伏。以後、鮭延貞綱は最上義光に仕え、重臣のひとりとなった。その拠点となったのが、今からいく鮭延城で、真室城とも。

そこそこ険しい道を上っていくと...


かなり広い空間が。野球場が2つは入りそうな広大なスペース。どうやら上ってきた道は搦手で、大手門は逆の方向らしい。


本丸からみた景色。目の前を鮭川が流れる。右手奥の街並みは真室川町。案内板によると、この本丸広場から川辺の地下船蔵まで地下道が通じていたように描写されている。なんとも男心をくすぐる施設ではないか。


鮭川を渡った地点からながめた鮭延城全景。なかなかの城跡である。この要害っぷりは、平穏な江戸時代には逆にアダとなり、後にこの地に入封した戸沢氏は一度はこの鮭延城に入ったものの、平地に新庄城を築いて移動したのは以前の記事で触れたとおり。城は廃城となり、放置された。

■ 清水城跡

次の目的地も最上郡の拠点となった城跡のひとつ、清水城。ほぼ鮭川に沿うかたちで、県道35号 → 国道458号を大蔵村まで南下。


清水城は最上の一族、清水氏が統治していたが、6代清水義氏には子がなく、最上義光の3男・義親を養子に迎えた。彼は養子として清水家に入る前、豊臣への人質として大阪に預けられていたために、豊臣秀頼と近しい仲だった。

1614年、大坂の陣の直前にこれが問題となってしまう。清水義親は実の兄である最上家親から豊臣に通じている疑いをかけられ、清水城は攻撃され切腹させられることになってしまった。


城の入口を登っていくと、二の丸と本丸の間の空堀にいきつく。空堀は相当深く、3メートル近くはあった。現在はこれをV字型の坂道で昇り降りするが、当時は橋がかかっていたのではないか。


二の丸は田んぼになっていたが、本丸は広場として整備されている。こちらも鮭延城並みに広い敷地で、当時はいろいろな屋敷や櫓が建っていたであろうことが想像される。


本丸から見下ろす城下。最上川の水運を利用できる絶好の位置にあることがわかる。まだ「五月雨を あつめてはやし」という時期ではないものの、その流れは十分に速い。

■ めざせ鳴子峡

さて、ここから旅の復路となる。今回は往路で通った鍋越峠、中羽前街道のひとつ北、北羽前街道を通る。こちらは松尾芭蕉が有名な『奥の細道』で通った道で、奥州から羽州に入った芭蕉のルートを逆走するかたちになる。

清水からはまっすぐ東に進んで国道47号(北羽前街道)に入る。途中、最上町のコンビニで小休止。このあたりも、戦国時代には小国城があった場所で、ちょうど写真奥の山がそれだと思われる。

とりあえず県境をこえてから、景勝地として有名な鳴子峡と、芭蕉ファンの間では有名な旧仙台藩の尿前の関を目指していたのだが、休憩中にググっていたら、街道沿いに山形藩側の関所である笹森番所跡なるものもあることを発見し、そちらも目指すことに。

ただ、最上町笹森のあたりにあることはわかったのだけど、肝心の跡地は見つからなかった。この北羽前街道はこのあと何度もとおることになると思うので、またの機会に後回し。

北羽前街道は、狭い道が続いた鍋越峠と比べると、ゆるやかで道幅も十分なふつうの国道である。ただ、その分トラックややたらとスピードを出す車も多く、原チャリ族にとってはむしろ走りにくい。

県境の中山峠をこえてしばらく進むと、目的地の鳴子峡。


橋の前にドライブインがあり、そこからの眺めが最高だ。本来、鳴子峡は秋の紅葉で有名な場所であるので、葉っぱが色づいてきたらもう一度来ようと思う。

鳴子峡の橋を渡ってちょこっと進むと、尿前の関跡がある。自分にとっては旧仙台藩の旧跡として興味がある場所なのだが、芭蕉ファン、および俳諧ファンにとっては「聖地」であり、一度は来なければならない場所らしい。


関所跡も復元され、周囲には芭蕉の句碑が建つなど、だいぶ整備されている。

■ 一大イベント

さて、景色のいいドライブを十分に満喫したところで、あとは岩出山経由で帰るだけなのだけど、今日は自分にとっての一大イベントを控えており、朝からそればっかりが気になっていた。朝、出発の段階でスクーターの走行距離が7700キロを超えており、このままいけば今日中に走行7777.7キロの7ゾロ目を迎えられそうだったのだ。

清水城を出たあたりで、おそらく鳴子のあたりで数字がそろいそうだなー、と思っていたところ、尿前の関で止まった時点で残り15キロくらいだった。

幸い、ここからは1.8車線くらいの本線脇に十分な幅がある道が続いていたので、メーターとにらめっこしながら自分の中でカウントダウンをしつつ、その時がくるのを待ちながら走る。そして...


祝! 7777.7㎞走破!!

さて、次にメーターがそろうのはあと7万キロ走った後か。原チャリで77777.7の数字を見た人っているんだろうか...笑

■ 岩出山とその周辺

これでメーターに気を取られることがなくなったので、あとはぶっとばして仙台まで帰るだけ。途中、道の駅岩出山(「あ・ら・伊達な道の駅」というナゾの名前なのだが)で遅めの昼食をとったあと、ちょっと寄り道して一栗城を目指す。


ここは大崎家の家臣、一栗氏の居城で、大崎家の執事でありながらたびたび本家に反抗した岩出山の氏家党の一派である。

その氏家党の本拠地・岩出山城はのちに伊達政宗の居城となるも、すぐに仙台に本拠地を移したため、事実上の拠点となったのは10年間程度だった。ただし、岩出山は仙台藩の要害として統治の拠点ではあり続けた。


今回はブログに使う全景写真をとりたかっただけなので、さらっと見学しておしまい。岩出山周辺には、有備館や伊達家の霊廟など見るべきところがいろいろあり、とても半日では収まらないのでこれもまたの機会に。

そのまま南下して、往路で通った中新田へ。そこからは同じルートをたどって帰宅。それにしても2日目は前日のようなトラブルもなく、走行距離も縁起のいい数字が並び、快適な一日だった。2日間を通して、天気のいいドライブ日和な日だったのも幸い。2週間前のお花見ツアーでも、これくらいいい天気が続けばよかったんだけどなぁ...。

■ 旅のルート・立ち寄りスポット


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