しろいし むねざね
白石 宗実 | |
「信長の野望・創造」より
| |
別名
| 老後丸、若狭守 |
生誕
| 1545年(天文14年)1月10日 ※本文参照 |
死没
| 1599年(慶長4年)10月27日 享年55歳 |
死因
| 自然死 |
君主
| 伊達輝宗 → 伊達政宗 |
藩
| 仙台藩 |
家格
| 一門 第五席 (※正確には息子の宗直の代から) |
所領
| 白石城 1586- 宮森城 安達郡塩松33邑 1591- 水沢城 15000石 |
氏族
| 白石氏 (※登米伊達家は子の宗直から数える) |
在位
| 不明 |
父
| 白石宗利 |
母
| 不明 |
兄弟
| 不明 |
妻
| 桑折宗長の娘 |
子
| 娘:心月院 養子:白石宗直(梁川宗清の息子) |
子孫
| |
先祖
| 刈田経元(白石氏家祖。藤原経清の子、 奥州藤原氏・藤原清衡の同母兄弟) |
墓所
| 龍雲寺(京都伏見) 養雲寺(登米市)にも供養塔あり |
片倉小十郎、伊達成実とともに「伊達三傑」の一人に数えられることもあるが、宗実の代わりに茂庭綱元を当てるものもある。一応、『登米町誌』『白石城物語』など白石氏ゆかりの資料には三傑に宗実がカウントされている。
これは想像だが、宗実は1599年に没しており、活躍は政宗の小田原参陣前の南奥州統一戦において目立つ。かわってもう一人の茂庭綱元は、それ以降、政宗政権の官房長官格としての活躍が目立つことから、宗実の死後に入れ替わるように呼称されたのではないだろうか。あるいは、完全に後世にできた呼称かもしれないが。
※ なお、亘理元宗を伊達三傑に数えるものもあり、市町村史をはじめとする郷土史本では、意見のわかれるところ顕著である。■ 生い立ち
刈田郡白石城主 白石宗利の嫡男として生まれる。登米伊達家の急進らで結成した温故会の編纂した『登米伊達家』によると、宗実は若くして兵学にたけ、諸国遍歴の旅に出た。その造詣は東海・近畿までも聞こえ、京都の信長屋敷に兵学の講義を求められた。帰路の三河でも家康の歓待を受けたという記録が残るという。1575年(天正3年)に白石に帰国。30歳。
父・宗利は『登米藩史稿』『白石氏系図書』によると1553年に死去しているが、『性山公治下記録』には元亀元年1570年の項に中野宗時・牧野久仲親子の謀反の際、彼らが相馬領へと逃げるのを防げなかった白石大和守宗利、宮内中務宗忠、田手式部宗光、小梁川盛宗に対し激怒、という記載があり、少なくともこの年まで生きていたことになる。
現在は片倉小十郎の城として 有名な白石城。元は宗実の城である。 |
これは宗実の帰国の5年前であることから、その死去もそれ(元亀元年)からさらに存命だったとすれば、嫡男の宗実が30歳まで諸国遍歴をできたこともうなずける。あるいは3歳年上の宗実の従兄(父・宗利の弟・綱辰の長男綱与)が宗実の後見をしていたとされ、宗実の留守中は彼が白石を代行して統治していたのかもしれない。
■ 対相馬戦
諸国遍歴から帰国して早々の翌1576年、伊達輝宗が対相馬の戦において一大兵力を招集する。その4番備えに白石宗実の名前が見えるのだが、この陣触れにおいて単独で「備」を構成しているのは、全11個の備のうち、1番備・亘理重宗、2番備・泉田景時、3番備・田手宗時、6番備・粟野重国の他にはおらず、この時点ですでにかなりの兵力を動員・指揮できる立場にあったことがうかがえる。
翌82年(天正10年)4月1日には政宗が梁川八幡宮に参詣したのちに梁川城に入城。士卒はこれを歓迎したが、宗実の行列は他にぬきんでて盛んだったという。同じ月に小斎城主・佐藤為信が伊達家に帰属すると輝宗は新地・駒ヶ嶺へ攻め入ったが、大雨にあい後退した。相馬義胤はここぞとばかりにこれに追い打ちをかけたが、白石宗実は手勢500をもって殿をつとめ、武将級10、雑兵100余りを打ち取り、本体には何の損害も与えない、という大殊勲を立てた。
1584年天正12年、輝宗は隠居し、政宗が家督を相続。このとき政宗はわずか18歳であったため、家臣のなかにはこれの実力を疑う声もあった。宗実はこれを心配し、娘を男装させ、政宗に奉公させることにした。諸将もこれにならって子弟を政宗に仕えさせることになったが、これは政宗が諸将の人質を得たことを意味し、政宗の軍令を軽んずる風潮は改まった。宗実は娘が11歳になったときにこの密謀が露見するのを防ぐために暇を願い出た。
■ 対相馬戦
諸国遍歴から帰国して早々の翌1576年、伊達輝宗が対相馬の戦において一大兵力を招集する。その4番備えに白石宗実の名前が見えるのだが、この陣触れにおいて単独で「備」を構成しているのは、全11個の備のうち、1番備・亘理重宗、2番備・泉田景時、3番備・田手宗時、6番備・粟野重国の他にはおらず、この時点ですでにかなりの兵力を動員・指揮できる立場にあったことがうかがえる。
※備:そなえ。戦において陣形を組むための単位。ひとつの備えについては300-800名で構成されるといわれており、1万石級の所領があれば単独で「備」を動員できるといわれている。1581年(天正9年)11月、相馬義胤が伊具郡に侵入。輝宗は臣下たちにその対策を諮問したが、宗実は「現在雪深く、兵を動かすには時期が悪い。春の雪解けを待って出動するのが得策」と建言し、これが採択された。
翌82年(天正10年)4月1日には政宗が梁川八幡宮に参詣したのちに梁川城に入城。士卒はこれを歓迎したが、宗実の行列は他にぬきんでて盛んだったという。同じ月に小斎城主・佐藤為信が伊達家に帰属すると輝宗は新地・駒ヶ嶺へ攻め入ったが、大雨にあい後退した。相馬義胤はここぞとばかりにこれに追い打ちをかけたが、白石宗実は手勢500をもって殿をつとめ、武将級10、雑兵100余りを打ち取り、本体には何の損害も与えない、という大殊勲を立てた。
1584年天正12年、輝宗は隠居し、政宗が家督を相続。このとき政宗はわずか18歳であったため、家臣のなかにはこれの実力を疑う声もあった。宗実はこれを心配し、娘を男装させ、政宗に奉公させることにした。諸将もこれにならって子弟を政宗に仕えさせることになったが、これは政宗が諸将の人質を得たことを意味し、政宗の軍令を軽んずる風潮は改まった。宗実は娘が11歳になったときにこの密謀が露見するのを防ぐために暇を願い出た。
宗実の娘出仕の後に諸将がこれに倣った、ということは、この時すでにそれなりに伊達家中における名声を得ていたのだろう。1545年誕生説に従うなら、この時すでに40歳。心身ともに働き盛りである。
■ 大内攻略戦
1585年(天正13年)大内定綱が蘆名家への傾倒を強めると、政宗はこれを討つことを決めた。はじめ会津の檜原峠を進軍し、あたかも会津・蘆名を直接打つように見せかけたが、狙いはあくまで小浜の大内定綱である。
■ 大内攻略戦
1585年(天正13年)大内定綱が蘆名家への傾倒を強めると、政宗はこれを討つことを決めた。はじめ会津の檜原峠を進軍し、あたかも会津・蘆名を直接打つように見せかけたが、狙いはあくまで小浜の大内定綱である。
8月、伊達成実が大内家の刈松田城主・青木修理の籠絡に成功すると、大内討伐軍の先鋒として白石宗實、片倉景綱、小梁川泥播斎、浜田伊豆、原田宗時らが刈松田に近い飯野に布陣した。8月24日、諸将は小手森城の攻略を開始。先鋒・川俣兵衛、右翼・小梁川泥播斎、白石宗実は右翼隊長として布陣。この包囲戦の最中、宗実は大内の一族、大内長門の士・松本与市以下50を打ち取り、その功績として政宗から駿馬1頭を授けられている。27日、小手森城落城。有名な撫で斬りがあったのはこのときであった。
※更新続く
※更新続く
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