2015年4月28日火曜日

中羽前/北羽前街道の旅 [前編]

みちのく「トリッパー」を名乗っておきながら、全然旅のにおいがしない記事ばっかりのブログなので、ちゃんと旅の記事も書いてみることにした。いや、それなりに本人は旅を楽しんでいるんですが、記事にしてないだけで...。

以前の旅もルートは記録してあるので、そのうちさかのぼって記事にするかも。

■ とりあえず新庄、余裕があれば横手まで

月・火と連休になっていることに気づく。加えて、今週は2週間前の花見ツアーの時と違ってずっと天気がよさそうなので、どっかにいくことにした(どっかって...)。

週末に仕事で通った関山峠の雪もかなり溶けてきたことだし、春を感じながら峠越えルートを攻めたいな、ということで目的地に選んだのが仙台発からの山形県・新庄。

ブログ主の峠好きは、以前にも書いたとおり。ここを目的地にすれば、行きと帰りで、二つの峠をこえられるのだ。鍋越峠と、鳴子峡(正確には中山峠)である。時間に余裕があれば、もっと足を延ばして秋田南部、横手あたりまでいけるかもしれない...!!

■ 越えるぜ中羽前街道

仙台から北上して、加美町から西に折れて、そのまま中羽前街道(国道347号)で鍋越峠を通って山形県入りするルートを選ぶ。ただ、加美町までどうやって行くかが問題。というのも、簡単に考えるなら奥州街道(国道4号)を北上していけばいいのだけれど、4号は何度もとおっているので、さすがに飽きてきた。

ちょうど宮城県図書館で借りた本を返さなくてはいけないタイミングだったので、それを考えると図書館によったうえで4号とほぼ並行して走る国道457号で北上していけばいいことに気づく。となれば、その線上にある史跡を自作マップからいくつかピックアップして、吉岡と中新田によって、中羽前街道に入ることに決定。

結果、こんな感じになった今回の旅。詳しくは以下、本文

■ 城下町&宿場町 吉岡

ふだんは4号沿いに素通りしている場所なのだけど、ちょっと西に入るとそれなりの街になっている。江戸時代はここに伊達政宗の3男・宗清の領地となり、吉岡城を築城した。より正確には仙台藩の城郭ランクでいう吉岡「所」である。

櫓がナイス。現在の入口脇には実際に隅櫓があったらしい。
右側の林が、城の跡地になる。
跡地はなかなかおしゃれな公園になっている。厳密にはこの公園の東側が跡地だそうで、現在の公園の中心にある池は当時から湿地帯だったそうだ。宗清公はここで舟遊びをするのが好きだったという、なんとも粋な殿様である。さすが政宗の息子。


吉岡は、後に幕末の仙台藩を奉行として主導する但木土佐で有名な但木家の所領となる。奥州街道沿いの宿場町としても栄えた町である。

■ 大崎家の拠点・中新田

吉岡から北上して中新田。こちらは「なかにいだ」と読む。戦国時代には大崎家の領土。伊達政宗が大崎領に侵攻した大崎合戦の際は、大崎家の最終拠点として機能した。この中新田城を守った南条隆継のたくみな采配と、おりからの大雪に足をとられた伊達軍はボコボコにやられ、政宗の戦のなかでも珍しい負け戦となった(もっとも、本人は出陣しておらず、大将の留守政景泉田重光の仲が険悪だったりと、条件はそれなりに悪かった)。

現在は当時を偲ばせるものはほとんど残っておらず、長興寺、瑞雲寺の境内になっている。周囲を歩いてみると、水路があったり道が不自然に曲がっていたりと、街に埋もれた城跡独特のなごりが見当たらないこともない。

わかりやすいのは境内の一角? に大崎氏の祖である斯波家兼の銅像が立っていること。なかなか立派である。この人は室町幕府を開いた足利家の一族で、のちにその斯波氏の分家が大崎家、山形の最上家へとわかれ、それぞれ奥州探題、羽州探題を名乗った。奥州随一の実力者である。

戦国時代、伊達氏の下風に立たされることになった大崎家の銅像ではなく、室町初期の実力者であった斯波家兼の銅像をたてるあたり、あのころは良かった感がにじみ出ているように感じてしまうのはひねくれた見方だろうか。

■ 葛西・大崎一揆の激戦地・宮崎城

さて、中新田から西にルートを大きく曲げて中羽前街道 → 鍋越峠、の前に一か所寄り道。方向は同じなのだが、加美郡の宮崎(旧・宮崎町)という集落。ここも戦国時代の大崎領の一部で、笠原一族の治める土地だった。

その中心地、宮崎城では大崎家が奥州仕置で滅亡して以後、大崎家再興をめざす家臣たちが葛西・大崎一揆に乗じて立てこもり、撫で斬りが行われたことで有名な佐沼城に並ぶ激戦地となった。

現在の熊野神社の東部がその城跡なのだが、完全に山林に覆われててまともな準備なくしては入れない様子。仕方がないので周囲をぐるっと一周。


シャープな崖と、田川に囲まれた激戦も納得の天険っぷりである。この宮崎城の戦いでは伊達家の智将・浜田景隆も討ち死にするほどの激戦となり...ってあ! そういえば浜田景隆の墓がこの近くにあったはず! と思い出すと都合よく役所前の案内板に墓の位置を記した地図があったのでそこにも立ち寄る。


場所は、現在の宮崎中学校の横。浜田伊豆守景隆を打ち取ったのは、宮崎にこもる笠原家の家老・今野与惣座衛門。大崎領内屈指の鉄砲名人で、「一発与惣座衛門」の異名をとった。墓は江戸時代に浜田の子孫が再建したもの。

■ いざ、鍋越峠

これで宮城県内のよりみちは終了。あとは中羽前街道を直進して、鍋越峠越えで山形へ。


峠越えルートは、鳴瀬川にそった崖にせり出した細い道が続く。ところどころ1.5車線やら相互片側通行の場所もあり、なかなかの難所続き。工事車両も多く、小回りのきく原付のほうがむしろ走りやすい。

この日は気温が25度近くまであがったかなりあったかい、というかもはや暑い日だったのだけど、高度があがってくるとさすがに空気も冷えて雪も残っている。



この鍋越峠、冬季は閉鎖されるのだが来年(2016年)からは通年通行可になるらしい。ところどころで道路の拡幅工事をしていたのはおそらくそのせいか。

■ 続く災難


肝心の鍋越峠はまだ路上に雪が残っていた上にかなり細い道だったので、危険と判断してトンネルを利用。無事に山形県に突入。この時点でまだ午前11時。これは、新庄なんかかるく通過して秋田まで余裕でいけるじゃないか...と思った瞬間、異変に気付く。

肩が...軽い?


この日は実は、小さなバックパックを背負っていたのだ。中にはパソコンやら本やら、一泊分の荷物が入っている。

それが、バックパックが、ない!!


ええぇーーーーー!!



どこかにおいてきたに違いない。いや、どうりでやけに肩がかるいわけだ。パソコンも入っていたのでそれなりの重量がある。それがないことに気づかず、気分よく峠越えをしていたとは...。

それにしてもどこにおいてきたのか見当がつかない。写真を撮るために留まった場所か? タバコ&水分補給でとまったときか? そもそも見つかるのか? 不安を抱えたまま、とりあえず宮崎城まで戻ることに。

まさか走っている途中にリュックを落してそれに気付かないなんてことはさすがにないだろうと思いつつも、念のために道路脇に目をこらしながら、どこに立ち寄ったかを思い出しながらひたすら道を戻る。

城跡でも見つからず、とりあえず加美町の交番にいってみたところ...あった!!

というか浜田景隆の墓の隣の中学校で、生徒さんが拾ってくれたそうで、そのまま中学校が預かっているとの連絡があったとのこと。そういえばあの時点で気温が上がってきたので、中のセーターを脱いだ時にリュックおろしたな...。

というわけで中学校にとりにいって旅を再開。それにしてもバックパックを落とすなんて、そうそうあることじゃないよなぁ。昼休み中にお邪魔した中学校の先生、その節はお忙しい中ありがとうございました。

気を取り直して再び鍋越峠へ、と思ったのだが、同じ道をまた行くのもなんだかアレである。

鍋越峠のちょっと北には県道262号が走り、そこには旧仙台藩の軽井沢番所跡もあるので、そっちを行くことにした。いちおう、さっき鍋越峠は越えて山形に入ったしね。

というわけで県道262号を進んでいくと...


まさかの通行止め!!

整備されたアスファルト道がいきなり砂利道になったと思いきやの通行止めである。わきに「冬季通行止め」と書いてあるけど、もう4月ですよ!? もう桜散り始めてますよ!?

どちらにせよ、これだけの砂利道なのでオフロードバイクか登山の準備がないときつい。というかこれで県道なの? 同じ道を引き返すのも2度目になるが、もう一度鍋越峠をめざすことに。まぁ、景色よかったし、いっか。

ちなみにこの宮城・山形県道262号(旧名・軽井沢越え、現・最上小野田線)は、調べてみたところ6月3日まで冬季通行止めだそうだ。ただし、山形県側の情報しか見つからなかったので写真の先、宮城県側はいつになったら開通するのか、そもそも開通の予定はあるのかどうかわからない。

■ ようやく新庄へ

道の駅 尾花沢
山形に入ってからは、ほとんど寄り道をせずにひたすら目的地の新庄へ。途中、一件だけ道の駅・尾花沢で遅めの昼食。

新庄についた時点で、予約していた宿にはチェックインできる時間になっていたので、荷物を預ける意味でも入ってしまうことにした。この時点で15時半くらいだったので、途中のゴタゴタで2時間近くロスしたとはいえ、がんばれば秋田まで行けなかったこともない。

ただ、体力うんぬんよりも精神的に疲れてしまったので、ちょっと部屋で休みつつ、情報収集をすることにした。今回の旅はあまり計画を練ったものではなく、前日にいきなり「どっかいこう」と思いついたものだったので、旅先の予習を全くと言っていいほどしていなかった。だから通行止めとかで困るんだよなぁ...。

一息ついて、まだ明るかったのでとりあえずは新庄城址(現・最上公園)まで向かうことにした。


なにやら、お祭りの最中である。公園内は出店や、課外学習中? の中学生、高校生、遅めの花見客でだいぶにぎわっている。

お城としての新庄城は1625年の築城。もともとは秋田の角館が本拠地だった戸沢氏が常陸の松岡をへてから新庄藩として入封。もともとは鮭延城(明日来訪予定)に入城したのだが、山城であることから不便であるために、この地に新しく城を築いた。

江戸時代の築城とあって、軍事的な要害さよりも、政治の中心となるべく建てられた、水堀をかまえた平城である。東北は山城ばっかりなので、こういった水堀をともなった平城(一般的な城址公園のイメージ)はかなり珍しい。山城だと城めぐりをしていて人に会うことはほとんどないのだが、大勢の人でにぎわう城跡、というのもかなり久しぶりな気がする。


この戸沢氏もそうなのだけど、東北の大名は江戸時代に移封となっても、それが東北内で完結することが多く、東北をテーマに旅とブログ執筆をしている自分にとってはうれしい限りである。

新庄藩は幕末の戊辰戦争で奥羽越列藩同盟の一員でありながら、佐竹秋田藩とともに途中でこれを離脱。これに激怒した庄内藩によって攻め込まれ、この新庄城も城下町ともども焼け落ちてしまった。

新庄城見学と、お祭りのふんいきを楽しんだところで空が暗くなってきたので、本日の旅はこれにて終了。翌日は新庄周辺をもう少しまわって、鳴子峡へ。

後編に続く

0 件のコメント:

コメントを投稿